2009年08月20日

ヨーロッパピクニック計画

1989年の夏の今頃、ハンブルクに住んでいた私は毎日テレビのニュースに
釘付けだった。何かが起こっている。何かが起こる。
そんな予感は誰も感じていた。いい知れぬ恐さが毎日あった。

ライプチヒやプラハのデモのニュース。それと同時に、ゴルバチョフの
訪問先での歓迎のニュースで絶大な人気があるのを感じた。
その頃は、ゴルバチョフのニュース、東の体勢のニュース、ポーランドの
連帯のワレサ書記長のニュースで殆どの時間が費やされていたように記憶している。

東ドイツ建国40周年式典に招かれたゴルバチョフと、ホーネッカーの
光景が印象的だった。
お偉方の万雷の拍手の中で固く抱き合い、握手をしたはずだったのに、
ホーネッカーの
「これで我が国と、貴国の関係はさらに頑固なものとなりますね」の言葉に
「貴方はまだそのような事を言っているのですか」と言う返事に、
ホーネッカーの笑顔がかたまってしまったように感じた。

ヨーロッパピクニック計画、又シェプロンのピクニックとも呼ばれる
大きな出来事があった。西側のニュースでは、地下組織が呼びかけた
国境脱出計画に多くの東ドイツ人がピクニックに行くという名目で、
ハンガリーとオーストリアの国境シェプロンに集まった。
この時の立役者にはハプスブルグ家の末裔もいたのを覚えている。
国境が開いた途端に人々が走りオーストリーに走って入った。
つかまる恐怖から、森の中にさらに走ってゆく人もいた。
しかし、簡単な木と有刺鉄線で作られた門のそばで人々は抱き合って
喜びを感じている。ハンガリーの国境警備兵も黙認。むしろ転んだ子供を
助けていた。皆泣いていた。私も泣いてそのニュースを見ていた。

確かに、当時でもウィーンに滞在している間、ブダペストに遊びに行く途中、
ハンガリーとオーストリーの国境には多くのトラバントが並び出国を待っていた。
「えっ!いいの?」と思った。これほどの社会主義国の人が自由に西側に
出てゆく光景を見た事がなかった。
しかし帰りの国境では、電化製品を満杯に積み込んだトラバントがまた
ハンガリーに入国しようとしている。ハンガリーとオーストリアの国境は
かなり緩かった。ハンブルクからベルリン、ライプチヒに行く国境の
イメージとはかなり違った。

ベルリンの壁が崩壊した直後の週末、ベルリンのホールでベートーベンの
「第九交響曲」が演奏され、ベルリン市民が招かれた。
西側のコンサートでは考えられない光景。誰一人としてコンサート用の服を
着ていない。普段着のジャンパー姿。これが彼らの一張羅。

そして私がまた涙したのは、その「第九交響曲第4楽章」の歌詞が
「Freude schöner Götterfunken・・・・」
(歓喜よ、美しい神々の花火よ・・・・)
ではなくて、
「Freiheit schöner Götterfunken・・・・」だった。
(自由よ、・・・)
ただただ涙がこぼれてしかたがなかった。

その時の指揮者はクルト・マズアだったと思う。彼もライプチヒのゲヴァントハウス
で指揮をしていたし、ライプチヒの名誉市民だったような記憶がある。
民主化で彼や彼の仲間が果たした貢献は歴史の一頁を飾る程の事だと思う。

一外国人の私にすら感激的な出来事だったシェプロンのピクニック。
あれから20年が経ってしまった。

歳を取ったのかな・・・今の若い人にもあの冷戦時代の事を忘れないでいてほしい
と言う思いがする。

ヨーロッパピクニック計画
ヨーロッパピクニック計画


ベルリンには壁を越えようとして殺された人達の碑が街中にいくつもあった。
何の犠牲も払わずに「自由」があって当然と思って疑わなかった私は
(そこにたたずんだ人は誰しもそうだったと思う)頭をガツンと衝撃にさらされた
ような思いと、息が出来なくなりそうな悲しみを覚えた。
だからか、このような絵はがき的な写真しかとれなかった。

ヨーロッパピクニック計画

これはソビエト戦士の記念館。中は記念碑に灯がともっていたように記憶している。
この記念碑の横に博物館があって、そこのレストランの鴨料理が名物だった・・・・
と言っても他にまともなレストランもなかったし、旅行者は大概そこで鴨を食べて
いたようだ。しかしながら、私の席からそこで見た光景は・・・
さっきソビエト戦士記念碑の前で交代の儀式をした兵士がそのレストランの
隅の個室にいた。床から5〜60cm程裾が上がったカーテン越しに
ハイヒールのミニスカートらしき女性を膝に乗せ足が絡んでいる。
何とも言いがたい退廃的な光景を感じてしまった。
「もう、こんな体制も終焉だな・・・」という感覚にとらわれた。

ヨーロッパピクニック計画

ライプチヒの街には、トラバントしか走っていなかった。
ライプチヒに着くまで、東の工業地帯、農村の脇を通り跳ばしていた私達の車が
警察にスピード違反でつかまった。同行していた商社の人達によれば、
二人の警官は罰金をいくらにしようか話し合っていたようだ。
いくらピンハネをするんかわからないが、これも東の貴重な財源だそうだ。

運転をしてくれた商社専属ドライバー(元東ドイツの人)が語ってくれた。
このドライバーさんはポルシェのテストドライバーをしていた人で、
それ以前に東ドイツからハルツ山中でお兄さんと冬にジャンプ台を密かに作り、
スキーでジャンプをして国境を越えたと話してくれた。
お兄さんは運悪く失敗してしまったそうだ。
その後はわからなくなってしまったと語ってくれた。
なんと返事をして良いのかわからなくなってしまったが、一人一人に
少しも幸福だった思い出を残さなかった体制。
華やかな先進国の仲間入りをしてしかも国境をもたない国に育った私には
その時ほど国境の意味が重くのしかかった気持ちにとらわれた事はなかった。



Posted by Atelier Ms at 13:57

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